一月、松の内が明けるころ、岩手の神社の境内には、火柱が立ちます。正月飾りやお札を焚き上げる、どんと祭。集まった人たちは、燃え上がる炎に手を合わせ、その火にあたって、一年の無病息災を願います。今日は、岩手の暮らしに織り込まれた、火の行事の話。私たちの土地では、火は暖房であるずっと前から、祈りのかたちでした。
一年は、火の行事でめぐる
数えてみると、岩手の一年は、火の行事でめぐっています。一月のどんと祭で正月の火を焚き上げ、春の彼岸には墓前に灯明。八月のお盆には、迎え火で先祖を家に招き、送り火で見送る。地域によっては、裸の男たちが炎の中で無病息災を祈る、蘇民祭のような勇壮な祭りも受け継がれてきました。火を焚くことは、あの世とこの世、神様と人の間の、交信の手段だったのです。囲炉裏の火を粗末にすると罰が当たる、と言われて育った世代が、岩手にはまだたくさんいます。火は、ただの道具ではなく、敬うものでした。
なぜ、火に手を合わせるのか
どんと祭の炎を見ていると、不思議なことに気づきます。誰に教わったわけでもないのに、人は大きな火の前で、自然と静かになり、手を合わせたくなる。燃える火には、けがれを浄め、想いを天に運ぶ力がある。世界中の文化が、別々に、同じことを信じてきました。キャンドルに祈る文化も、聖火を運ぶ文化も、根は同じです。火は人類最初の神様だった、と言う学者もいるほどです。(火と人類の記憶の話は、こちら。)
家の火は、小さな行事の場になる
薪ストーブのある家では、この「火と祈り」の感覚が、日々の暮らしにそっと戻ってきます。大晦日の夜、一年の感謝を思いながらくべる最後の薪。新年の朝の、初火入れ。受験の朝、子どもを送り出してから、合格を願ってひとり火を眺める時間。誰が決めたわけでもない、わが家だけの小さな火の行事が、自然と生まれていくのです。囲炉裏の時代から、日本の家の火は、家族の節目の証人でした。その役割は、現代の薪ストーブにも、ちゃんと受け継がれています。(囲炉裏の話はこちら、年越しの火はこちら。)
敬いながら、楽しむ
火を敬う気持ちは、安全に使う心がけと、同じものです。きちんと手入れをして、正しく焚いて、感謝して使う。岩手・盛岡のD'STYLEは、ハースストーンやバーモントキャスティングスの薪ストーブの設置を通じて、この土地の火の文化の続きをお手伝いしています。あなたの家の火の行事、いつか聞かせてください。ご相談はいつでもどうぞ。



