夜、布団の中でスマートフォンを眺める。誰かの新車、誰かのハワイ、誰かの昇進、誰かの整った家。別に不幸ではなかったはずの自分の一日が、画面をスクロールするほど、少しずつ色あせていく。あの感覚に名前をつけるなら、「比較疲れ」でしょうか。今日は、その疲れと、火のある夜の話です。
比較の材料が、無限になった
人と比べるなと言われても、無理な相談です。人間は比べる生き物ですから。社会心理学者のレオン・フェスティンガーは、人は自分の位置を、他人と照らし合わせて測ろうとするものだと説きました。社会的比較理論と呼ばれる、有名な考え方です。問題は、比べる相手の数が変わったこと。昔は、比較の相手はご近所と同級生くらいでした。今は、スマホの中に、全国の「上には上」が無限に流れてくる。しかも、みんな人生のハイライトだけを投稿している。無限の他人のハイライトと、自分のありふれた日常を比べ続けたら、疲れるのは当たり前なのです。
火の前には、比較が流れてこない
薪ストーブの前の夜が、なぜ効くのか。あそこには、比較の材料が流れてこないからです。あるのは、うちの火、うちの猫、うちの湯のみ。炎を眺めている三十分、意識は「よそ」ではなく「うち」に向いています。パチパチという音、頬に届く熱、今夜の薪の燃えっぷり。どれも、誰とも比べようのない、一回きりの「うちの夜」です。サウナも同じです。熱と汗の前では、他人のハイライトは一枚も再生されません。(スマホの入らない部屋の話は、こちら。)
炎のゆらぎが、「うち」に連れ戻す
火にはもう一つ、不思議な力があります。人はなぜ、炎をいつまでも眺めていられるのか。ゆらめく炎の、規則的なようで不規則な動きには、心を落ち着ける独特のリズムがあると言われます。川のせせらぎや、寄せる波と同じ種類の、飽きのこない揺らぎです。画面のまぶしい光が私たちを「よそ」へ引っ張るのに対して、火の光は、まなざしを静かに手元へ、今へと連れ戻します。だから火を見た夜は、スクロールをやめられる。炎は、いちばん優しいデジタルデトックスの装置なのです。
足るを知る者は、富む
老子の「足るを知る者は富む」は、我慢の教えではありません。すでに持っているものの価値が見えている人が、いちばん豊かだ、という話です。火のある夜は、この「すでに持っているもの」を、毎晩、目の前で見せてくれます。暖かい部屋、うまい湯、眠くなる体、そこにいる家族。スクロールでは決して手に入らない、手触りのある充足。「うちは、これでいいのだ」と思える夜が週に何度かある人は、強い。比較の時代のいちばんの防具は、比べようのない自前の幸福を持つことだと思います。(ミニマリズムの話は、こちら。)
自前の幸福は、手触りでできている
画面の中の幸福は、指を離せば消えます。けれど、火の熱も、湯の温度も、外気浴の風も、確かに肌に残る。手触りのある幸福は、比べる必要がありません。比べようがないからです。今夜のこの一杯が、隣の家のより上か下かなんて、火の前では思いもしない。誰かの評価を経由しない喜びを、暮らしの中に少しずつ増やしていく。薪をくべる手、湯気の匂い、頬に触れる夜気。数えあげれば、手元にはもう十分すぎるほどの幸福がある。それが、比較疲れの時代に、心をすり減らさずに生きるいちばんの知恵だと、火のそばで毎晩教わっています。
自前の幸福を、据え付けます
岩手・盛岡のD'STYLEは、ハースストーン、バーモントキャスティングス、ハルビアの正規代理店として、スクロールの外にある夜の設置をお手伝いしています。よそはよそ、うちは火。ご相談、いつでもどうぞ。
写真: Markus Trienke (Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0)



