初夏の岩手に、時おり冷たい風が吹きます。やませ。太平洋側に霧と低温を運ぶ、東寄りの風です。六月だというのに肌寒く、空は灰色。この風は、岩手の歴史に深く刻まれた風でもあります。今日は、風土の話。少し重い歴史から始めて、いまの暮らしに着地します。

やませとは、どんな風か
やませは、夏のあいだオホーツク海の高気圧から吹き出す、冷たく湿った北東の風です。冷たい親潮の上を渡ってくるため、霧をまとい、太平洋側の気温を下げます。山を越えて吹くことから「山背」と書くとも言われます。同じ風でも、奥羽山脈を越えた日本海側ではからりと乾く。太平洋側にだけ、じっとりした冷夏をもたらすのが、やませの気質です。稲が育つ大事な夏に長く居座ると、実りが細る。冷たい東風が吹くと海霧が立ちこめ、日ざしは弱まり、田は水温を上げられない。稲にとっての試練が、そのまま人にとっての試練でした。この風は、昔の岩手にとって、天気予報以上の重みを持っていました。
やませと、冷害の記憶
やませが長く吹いた年、北東北はたびたび飢饉に見舞われました。浅間山の噴火も重なった天明の大飢饉、続く天保の飢饉。時代が下っても、昭和九年の東北大凶作では、多くの家が苦しみました。宮沢賢治が「雨ニモマケズ」に記した「サムサノナツハオロオロアルキ」の一行は、この土地の切実そのものです。岩手の人の芯にある、静かな粘り強さ。あれは、この気候と何百年も向き合ってきた土地の気質だと思います。(この気質はフィンランドの「シス」とよく似ています。こちら。)
賢治が、寒さと闘った
その賢治は、花巻農学校の教師でした。教壇を降りたあとは羅須地人協会を開き、自ら畑に立ち、農民のために肥料の設計に奔走しました。冷害に負けない稲を、少しでも実らせたい。その一心です。詩人であり、科学者であり、農業技師でもあった賢治の仕事の根には、いつもやませと冷害への切実な思いがありました。彼が夢見たのは、寒さに脅かされない、豊かな農の暮らし。私たちがいま火と蒸気で寒さに答えているのも、その願いの、遠い続きなのだと思います。賢治が理想の郷に「イーハトーブ」という名を与えたように、厳しい風土のなかで、人はそこに夢を描いてきました。
寒い土地は、火の文化を磨く
寒さと向き合った土地は、必ず火の文化を磨きます。曲り家の囲炉裏は馬と人を同じ屋根で暖め、南部鉄器は火の熱を暮らしの道具に変え、炭焼きは山の仕事になり、南部せんべいは凶作に備える保存食になった。岩手の伝統文化を並べると、その多くが「寒さへの答え」です。薪ストーブとサウナがいま、この土地でこれほど自然に受け入れられているのは、偶然ではありません。私たちは、火で寒さに答えてきた土地の、続きを生きているのです。(火の行事の話はこちら、鉄器はこちら。)
宿命を、豊かさに読み替える
現代の私たちは、幸いにも、冷夏が飢えに直結しない時代に生きています。いまなら、この気候を別の目で見ることができます。やませの霧は幻想的で、冷夏の夜は、サウナと薪ストーブの出番が増える夜です。梅雨寒の六月に焚く一夜の薪ストーブの、なんとありがたいこと。寒さは、先人にとっては宿命でしたが、装備を持つ私たちには、資源になりました。この読み替えこそ、先人への一番の供養だと思うのです。(寒さは資源だ、という話は、200本目の宣言にも書きました。)
風土に根ざした店として
岩手・盛岡のD'STYLEは、この風土の中で、火と蒸気を商っています。やませの吹く年も、雪の深い年も、あなたの家が「大丈夫な側」でありますように。ハースストーン、バーモントキャスティングス、ハルビアの正規代理店として、風土に合った一台をご提案します。ご相談、いつでもどうぞ。
写真: Trevor Littlewood (Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.0)



