私もフィンランドやリトアニアで、数えきれないほどスモークサウナに入ってきました。鼻を真っ黒にしながら入る。それが、なんとも心の落ち着く時間なんです。80℃の熱の中で、いつもと違う湿度と暖かさを感じる。時間の感覚がなくなって、人が森と一緒に生きてきたことを、体のほうで思い出す。氷点下のリトアニアで氷を割って水風呂に入った旅の記録はリトアニア・スモークサウナ紀行に書きました。
今日はその煙の文化の本家のひとつ、エストニアの話です。バルト海を挟んでフィンランドの対岸にあるこの小さな国は、世界で最も深くサウナと生きてきた国のひとつです。
「saun」は、フィン・ウゴル語族の言葉
エストニア語でサウナは「saun(サウン)」。フィンランド語の「sauna」と同じく、フィン・ウゴル語族に属する古い言葉です。エストニア人とフィンランド人は言葉の親戚であり、サウナの親戚でもあります。海を挟んだ両岸で、同じ熱の文化が育ちました。
エストニアのサウナは、キリスト教が届く前の異教の時代から、体だけでなく心を清める神聖な場所でした。象徴的な逸話が残っています。かつてこの地に暮らしたリヴ人は、強いられた洗礼を受けたあとサウナで体を洗い、洗礼そのものを水と共に洗い流した、と記録されています。彼らにとっての聖域は教会ではなく、サウナだったのです。
農場でいちばん清潔な建物もサウナでした。だからこそ、そこは出産の場であり、病人を癒す場でもありました。温めることが体の回復を助けると考えられ、暮らしの医療の中心にサウナがあった。「サウナで生まれ、サウナで治す」。そういう感覚が、エストニアの古い暮らしの根っこにありました。
サウナトントと、静かな作法
サウナには「サウナトント」と呼ばれる精霊が住むとされてきました。入るときには挨拶をする。大声で騒がない、悪口を言わない、口笛も吹かない。熱は借りもの、というくらいの感覚でしょうか。この静けさの作法は、現代のエストニアのサウナにもそのまま受け継がれています。サウナで気持ちが落ち着くのは、たぶん温度のせいばかりではありません。場所そのものが、静かにしていなさいと言ってくる。
煙突のないサウナ「スイツサウン」の仕組み
エストニアの伝統的なサウナはスモークサウナ、現地の言葉で「suitsusaun(スイツサウン)」です。仕組みは明快です。ストーブに煙突がありません。数時間かけて薪を焚くあいだ、煙は部屋の中に充満し、梁と壁と天井を燻しながら、積み上げた石をゆっくりと芯まで温めていきます。
焚き終えたら、扉と小窓を開けて換気します。そして石に水をかけ、最初の刺激の強いロウリュを人が浴びずに飛ばす。部屋を清めてから、ようやく人が入る。これが昔からの作法です。壁を真っ黒にしている煤は、何十年も火を焚き続けてきた、時間の層です。
煙に燻された石から立ちのぼるロウリュは、柔らかくて、長持ちします。金属を電気で熱した鋭さとは違う、丸くて深い熱。そして、鼻の奥にいつまでも残る煙の香り。これがスモークサウナなんです。

ユネスコが認めた、ヴォロマーの煙サウナ
エストニア南部、ヴォロマー地方の煙サウナの伝統は、2014年にユネスコの無形文化遺産に登録されました。登録されたのは、建物ではなく、サウナを焚き、入り、子や孫に受け継いでいく暮らしの全体です。
その中心にあるのが、土曜日のサウナの夕べです。週の終わりに家族でサウナを焚いて、順番に入り、一週間の汚れと疲れを落とす。祖母が孫にヴィヒタの当て方を教え、父が子に火の焚き方を教える。そうやって暮らしの手つきが、下の世代へ渡っていきます。
ヴィヒタは白樺の枝葉を束ねたものです。湯で戻して香りを立たせ、石鹸を泡立てて、足の裏から始めて全身を叩き、さすっていく。血行を促すと考えられており、白樺の香りが煙の香りと混ざって部屋に満ちます。私にとって、この瞬間がスモークサウナのいちばんの贅沢です。

ヴォロマーの煙サウナは、実用の場でもありました。熱と煙で肉を燻し、穀物や亜麻を乾かす。結婚式の前には花嫁が身を清め、クリスマスには家族そろって入る。暮らしの節目には、たいていサウナがそばにありました。
伝統は、現代の設計に生きている
現代のエストニアでは、都市の住宅にも当たり前にサウナがあります。そこで問われるのは、あの丸くて深い熱をどう再現するか。鍵になるのは、結局のところ換気の設計とヒーターの選定です。石の量、吸気と排気の流れ、木材の選び方。五千年ぶんの経験が、現代の技術と噛み合っている。
これは、私たちが岩手でサウナ室をつくるときの考え方とまったく同じなんです。熱の質を決めるのは、機械のカタログの数字ではなく、換気と石と木のほう。煙の国の知恵を、私たちは毎回のように借りています。
鼻の奥が黒くなるほど、不思議と心のほうは澄んでいく。
煙の中にいると、少し森に帰った気になります。
スモークサウナから上がると、髪と肌にしばらく煙の香りが残ります。その匂いを連れたまま、外の空気の中へ出ていく。私がフィンランドやリトアニアの煙の中で味わってきたあの時間を、エストニアの人々は五千年かけて磨き、ユネスコが認める文化にまで育てました。
ひとつだけ注意を。スモークサウナは換気が命です。本場でも、焚いたあとに必ず換気をして最初のロウリュを飛ばしてから入ります。また、高温での長居は体に負荷がかかります。体調のすぐれない日や持病のある方は無理をせず、水分をとりながら短めに。それもまた、煙の国の作法です。
岩手の木でつくる自社ブランドのサウナKUUTAでは、この「熱の質」を軸に設計しています。盛岡・国道4号線沿いのショールームで、薪サウナストーブの実物を体感できます。ご相談は無料です。
出典:Tamara Habicht『Eesti saun』(2014)/Maagna (2012)/Hõbepappel & Nellis (2023)



