日本のサウナの歴史をたどると(60年史はこちら)、必ず行き着く土台があります。銭湯です。番台、富士山のペンキ絵、黄色いケロリンの桶、湯上がりの腰に手の牛乳。今日は、減りゆく銭湯への、私たちなりの讃歌です。家にサウナを売る店が銭湯を語るのは変に思われるでしょうが、最後まで読めば、矛盾しないことが分かってもらえるはずです。

銭湯が教えてくれたこと
内風呂が当たり前になる前、日本人は湯を、町で共有していました。湯は、体を洗う場所であると同時に、社交場だったのです。ご近所の噂話、子どもの背中を流す大人、湯船の縁の世間話。「裸の付き合い」という言葉が生まれた場所。フィンランドのサウナが村の社交場だったのと、まったく同じ構図です。湯と蒸気のまわりに人が集まり、肩書きを脱いで話す。この文化の型を、日本人は銭湯で、何百年も練習してきました。日本でサウナがこれほど受け入れられた下地は、間違いなく銭湯がつくったものです。
江戸の湯屋から、続くもの
銭湯の歴史は古く、江戸の町には数百軒の「湯屋」がひしめいていました。初期の湯屋は、湯気を閉じ込めて温まる「戸棚風呂」や、かがんでくぐる「石榴口」という、いわば蒸し風呂に近い形。つまり日本人は、江戸の昔から、蒸気で温まる文化をちゃんと持っていたのです。湯屋の二階は、将棋や茶を楽しむ町の社交サロンでした。そこは今でいうサウナラウンジそのもの。熱と蒸気のまわりに人が集い、くつろぐ。この形が三百年以上前から続いていると思うと、今のサウナブームも、どこか里帰りのように見えてきます。
あの意匠たちは、文化財です
銭湯の意匠には、天才的なものが多い。浴室の富士山のペンキ絵は、記録では1912年、東京・神田猿楽町の「キカイ湯」に静岡出身の画家が描いたのが第一号とされ、湯に浸かりながら旅気分を味わう発明でした。高い天井と湯気抜きの窓は、蒸気の抜けを計算した機能美。黄色いケロリンの桶は、1963年に登場した薬の広告桶が、いつしか銭湯の象徴になったものです。脱衣所の縁側と庭、体重計、マッサージ椅子まで含めて、あれはひとつの完成された文化です。全国の銭湯は年々減っていますが、サウナブームで若い世代が名物サウナのある銭湯に行列をつくる時代にもなりました。文化は、使われることで残ります。
湯上がりの一杯、という発明
そして、湯上がりの一杯。冷たい牛乳やフルーツ牛乳を、腰に手を当てて一気に飲む作法は、いつからか銭湯の風物詩になりました。もともと牛乳は、冷蔵設備のある銭湯で冷やして売れた飲み物です。火照った体に冷たい一杯がしみる快感を、日本人は銭湯で覚えたのです。これは、サウナ上がりの水分補給や、いわゆる「サ飯」の原型とも言えます。ととのった後の一杯がなぜあれほどうまいのか。その答えを、私たちの祖父母は、とっくに腰に手を当てて知っていました。
家サウナと銭湯は、敵ではない
家にサウナを持ったら、銭湯に行かなくなるか。実際は逆です。家で毎日ととのう人ほど、たまの銭湯・温泉の「広い湯船」「よその湯の味」を、深く味わえるようになります。ふだんは家の蒸気、ときどき町の湯。母校を訪ねるような気持ちで、のれんをくぐる。湯の文化はぜんぶ地続きで、敵も味方もありません。私たちの願いはただ、湯と蒸気を愛する人が増えることです。(お風呂とサウナの話は、こちら。)
湯の文化の、末席で
岩手・盛岡のD'STYLEは、銭湯が教えてくれた「湯は人を集める」という真理を、家庭のサウナで受け継いでいるつもりです。家の蒸気と、町の湯。両方を愛する暮らし、始めませんか。ご相談、いつでもどうぞ。湯上がりの牛乳は、腰に手を当てて。
写真: Harri Hedman (Wikimedia Commons, CC BY 3.0)



