よ市の話(こちら)で名前だけ触れた、材木町の光原社。今日はその物語を、きちんと書きます。宮沢賢治の生前唯一の童話集『注文の多い料理店』は、東京の大出版社ではなく、盛岡のこの小さな社から世に出たのです。

無名の賢治に、賭けた男
大正13年(1924年)、光原社の創業者・及川四郎は、盛岡高等農林の縁で持ち込まれた童話集の出版を引き受けます。書き手は、花巻の無名の農学校教師、宮沢賢治。『注文の多い料理店』は千部刷られ、そして、ほとんど売れませんでした。同じ年に自費出版した詩集『春と修羅』も、世間の反応は薄いまま。賢治は生前、作家として報われることなく、昭和8年に37歳で世を去ります。けれど、あの一冊が出ていなければ、山猫の「注文」も、イーハトーブの入り口も、形になりませんでした。「光原社」という社名も、賢治自身が名付けたものと伝わります(賢治と火の話はこちら)。
売れなかった一冊の、その後
生前ほぼ無名だった賢治が、日本を代表する作家になったのは、没後のことです。遺された膨大な原稿が世に出るにつれ、『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』、『雨ニモマケズ』が、世代を超えて読み継がれていく。故郷を賢治は「イーハトーブ」という理想郷の名で呼びました。岩手をもじったこの言葉は、今や県の観光や文化の合言葉です。売れなかった千部の童話集が、百年後には国民的物語の出発点になった。及川四郎の目利きと友情は、時間をかけて、これ以上ない形で報われたのです。
いまの光原社は、工芸と珈琲の聖地
現在の光原社は、出版社ではなく、民藝の工芸品店として続いています。石畳の中庭、漆や染織や陶器の店、賢治の資料室。そして奥にある喫茶・可否館(こひーかん)。深煎りの珈琲と、名物のくるみクッキー。中庭の胡桃の木の下で飲む一杯は、盛岡の喫茶文化(こちら)の聖地のひとつです。北上川沿いの立地で、窓越しに夕方の岩手山が見える日もあります。旅の方には、よ市の立つ土曜の夕方をおすすめします。市の賑わいと、光原社の静けさを、一度に味わえますから。
本と火と珈琲の、似合う町
材木町という町名は、藩政期にこの界隈が北上川の舟運を使った材木の集散地だったことの名残です。木の町で、本が生まれ、工芸が育ち、珈琲が香る。この読み物が愛してきたもの(火のそばの読書、木の道具、ととのった後の一杯)が、ぜんぶ一本の通りに揃っています。通りには賢治の詩の一節を刻んだ碑が点々と置かれ、散歩そのものが小さな文学館です。盛岡にお住まいの方も、あらためて歩いてみてください。
賢治が歩いた、盛岡の街
宮沢賢治にとって、盛岡は青春の街でした。旧制盛岡中学と盛岡高等農林で学んだ十代から二十代前半、賢治はこの街を歩き、鉱物や植物を採集し、詩の言葉を育てました。北上川の岸辺の一角を、賢治は「イギリス海岸」と名づけて愛したことで知られます。白っぽい泥岩の川床が、遠い異国の海岸を思わせたのでしょう。石が好きで、星が好きで、地質と農学を志した若者の目に、盛岡の川も丘も特別に映ったのです。光原社のある材木町から川べりを歩けば、賢治が見たであろう景色が、今も断片的に残っています。街そのものが、あの物語の生まれた土壌なのだと、歩いて初めて腑に落ちます。散歩の足で、物語の源をたどれる街です。
物語の生まれる町の、火の店
岩手・盛岡のD'STYLEは、物語の生まれる町の片隅で、火と蒸気を商っています。『注文の多い料理店』を火のそばで再読する夜(こちら)、おすすめです。山猫の注文より、当店の見積もりは正直です。ご相談、いつでもどうぞ。
写真: 掬茶 (Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0)



