賢治の火の話(こちら)を書いた以上、もう一人を書かないわけにはいきません。石川啄木。渋民村(現・盛岡市玉山)に育ち、二十六年の短い生涯で、ふるさとの歌を数多く残した歌人です。今日は、啄木の歌で読む、岩手の温度の話です。

ふるさとの山に、向ひて
「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」。岩手山の見える暮らしの記事(こちら)でも引いた、あの歌です。歌集『一握の砂』の中でも、ことに人の胸に残る一首でしょう。啄木がこの歌を詠んだのは、故郷を離れた東京でのこと。言葉も出ないほど、ただありがたい。目の前にない山に向かって詠んだ望郷の歌です。岩手に住む私たちが毎日あの山を見られることの贅沢が、逆に照らされます。外気浴で火照った体を冷ましながら岩手山を眺めるとき、この歌を思い出すと、いつもの見慣れた山が少しだけ、ありがたく見えてきます。
渋民村の、二十六年
啄木は明治19年(1886年)に生まれ、渋民村(現在の盛岡市玉山)で少年時代を過ごしました。母校の渋民尋常小学校では代用教員も務めています。北海道への流転や東京での暮らしを重ね、第一歌集『一握の砂』を明治43年(1910年)に世へ出しますが、その二年後、肺結核でわずか二十六年の生涯を閉じました。貧しさと病、家族を養う重荷を背負いながら、それでも最後まで歌を手放しませんでした。若さの盛りで書かれたからこそ、その歌には、体の芯の冷えと、ふるさとへの熱が、同じ強さで宿っています。
雪と、停車場と、なまりの歌
啄木の歌には、北国の冬の体感が刻まれています。「かにかくに渋民村は恋しかり おもひでの山 おもひでの川」。そして上野駅で詠んだ「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」。都会の雑踏で、岩手のなまり(方言の話)を聴きに行く青年。ふるさとの記憶が、山と川と、言葉の音でできていることを、啄木は百年以上前に歌にしていました。匂いの記憶の話(こちら)と、まったく同じ構造です。人は、風景と音と匂いで、ふるさとを持ち歩くのです。
働けど働けどの、その先に
「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢつと手を見る」。啄木のいちばん有名なこの歌は、貧窮の歌ですが、現代の私たちの胸にも刺さります。働いても働いても、と感じる夜は、今もあるからです。百年前の青年の嘆きが古びずに届くのは、暮らしの苦労の形が、そう大きくは変わっていないからでしょう。もし啄木が現代の岩手にいたら、と勝手な想像をします。じっと手を見る夜に、火のそばの椅子と、熱い蒸気があったなら。彼の張りつめた孤独も、少しはあたためられたはずです。文学の解釈としては乱暴でも、火の店としては、本気でそう思うのです。疲れた夜の居場所を作ることが、私たちの仕事ですから。(泣きたい夜の話は、こちら。)
柳あをめる、北上の岸辺
「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」。盛岡を流れる北上川の春を詠んだ、これも名高い一首です。雪解けの水がゆるみ、柳が芽吹く。長い冬を越した北国の人にしか分からない、春の泣きたくなるような嬉しさが、この三十一文字に閉じ込められています。厳しい冬があるからこそ、春も、火のぬくもりも、ひときわ深く身にしみる。啄木の歌は、寒い土地に生きる喜びを教えてくれる教科書でもあるのです。
歌の生まれた土地で
盛岡には、啄木新婚の家、もりおか啄木・賢治青春館と、青春の足跡が残っています。歌集を一冊、火のそばの本棚にどうぞ。ふるさとの温度を詠んだ歌人の言葉は、火のある部屋で読むのがいちばん似合います。岩手・盛岡のD'STYLEは、歌の生まれた土地の火の店として、今日も営業しています。
写真: Peter Quade (Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0)



