三月は、旅立ちの季節です。進学で、就職で、子どもが家を出ていく。新居に送る段ボールに詰められるものは限られていますが、荷物にならない携行品が、ひとつあります。この家で過ごした時間の記憶です。今日は、巣立ちの春と、火の家の話。送り出す側の親御さんに向けて書きます。

最後のひと月は、意識して火のそばに
出発の日が決まったら、残りのひと月を、少し意識して過ごすことをおすすめします。特別なことでなくていい。夜、火の前でお茶を飲む時間を、いつもより一回多く。週末の家族サウナを、もう一度か二度。「最後だから」と口に出すと湿っぽくなるので、ただ、いつも通りの夜を、丁寧に重ねる。子どもの記憶に残るのは、卒業式のような式典より、この何でもない夜のほうです。火の家に育った子が何を覚えているかは、以前書いたとおり。係と、匂いと、火の前の夜です。
旅立ちの朝は、火を入れて
そして、出発の朝。三月の岩手はまだ寒い。どうか、火を入れて送り出してください。朝ごはんの味噌汁は天板から、玄関までの家はあたたかく。「行ってきます」の背中に、薪の香りがひとつ、荷物として付いていきます。数年後、どこかの街で薪の煙に出会ったとき、この朝が丸ごと戻ってくるはずです。匂いの記憶は、親が持たせられる、いちばん息の長い餞別です。(匂いと記憶は、こちら。)
匂いは、いちばん深く残る記憶
なぜ匂いが、それほど強く記憶を呼び戻すのか。理由は、脳のつくりにあります。目や耳の情報が理性の脳をいったん経由するのに対し、鼻がとらえた匂いは、記憶をつかさどる海馬と、感情をつかさどる扁桃体へ、ほぼ直通で届く。だから匂いの記憶は、言葉より先に、感情ごとよみがえります。ある香りで昔の情景が一気に立ち上がる現象は、作家マルセル・プルーストの小説にちなんで「プルースト現象」と呼ばれています。薪の煙の匂いを、実家の朝の情景と一緒に子どもの脳へ焼きつける。これは、どんな品より長持ちする置きみやげです。
火の家は、帰る理由になり続ける
送り出したあとの家は、静かです。でも、火の家には、続きがあります。「正月はサウナ入りに帰るわ」「ストーブの季節になったら顔出す」。火と蒸気は、巣立った子の帰る理由になり続けます。やがて、恋人を連れて、その次は孫を連れて、火の前の定位置に戻ってくる。子育ての卒業は、火の家の卒業ではありません。むしろここからが、灯台の本番です。(おかえりの温度は、こちら。)
火の習慣は、その子の一生ものになる
火の家で育った子は、家を出たあとも、どこかで火を探すようになります。狭いアパートでキャンドルを灯したり、休日に銭湯やサウナへ通ったり、いつか自分の家を持ったら薪ストーブを、と夢を語ったり。子ども時代に体で覚えた心地よさは、大人になっても消えません。慌ただしい一日の終わりに、ふと火のそばの静けさを恋しく思う。その感覚こそ、親から受け継いだ、いちばん豊かな習慣です。物は古びても、暮らしの好みは古びない。あなたが火を焚いて過ごした夜の一つ一つが、巣立った子の中で、これからの暮らしの土台になっていきます。持たせた物より、育てた好みのほうが、ずっと長く、その子を温め続けます。火の記憶は、いちばん軽くて、いちばん長持ちする荷物なのです。
巣立ちの前に、間に合わせたい方へ
「子どもが家にいるうちに」というご相談は、いつも少し急ぎです。岩手・盛岡のD'STYLEは、その気持ちの分かる店として、できる限りの段取りでお応えします。残りの家族の年数を、火のそばで。ご相談、いつでもどうぞ。
写真: Markus Rantala (Makele-90) (Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0)



