一月の盛岡の夜、気温は氷点下。その中を、さらしを巻いただけの男たちが、口に紙をくわえ、鈴を鳴らして静かに歩きます。盛岡の裸参りです。教浄寺や酬恩寺などに伝わる寒中の行で、藩政時代から続くとされる、この街の冬の風物詩。今日は、寒さに身をさらす文化の話です。

なぜ、真冬に裸で歩くのか
裸参りの男たちは、無病息災や家内安全、厄払いを祈って歩きます。注目したいのは、その方法です。祈りの言葉ではなく、寒さに耐える身体そのものを、祈りとして捧げている。あえて一年でいちばん過酷な季節に、あえて裸で。快適さを手放すことで、心を研ぎ、願いに本気を込める。口にくわえた紙は、私語を慎む沈黙の証です。極寒と沈黙の中を歩く姿は、動く座禅のようでもあります(禅とサウナの話)。
白い息と、鈴の音の行列
盛岡の裸参りは、小正月のころ、市内のいくつもの社寺で行われます。さらしを腹に巻き、注連縄をたすきに掛け、わらじ履き。男たちは口に「含み紙」をくわえ、私語を封じて、御神灯や鈴を手に、雪道を一列で進みます。しゃらん、しゃらんと鈴が鳴り、白い息が街灯に浮かぶ。沿道の人々は、思い思いに手を合わせて見送ります。あるのは、雪を踏む足音と、澄んだ鈴の音だけ。ただ黙々と、寒さの中を歩く。その禁欲的な美しさこそが、盛岡の冬の、いちばん凛とした風景です。
世界中に、同じ祈りがある
寒さに身をさらす行は、世界共通です。日本各地の寒中みそぎ、滝行。フィンランドの氷の穴に入るアヴァント(こちら)も、レジャーである前に、体を清める文化の匂いを残しています。ロシアの氷水浴も、洗礼の伝統と結びついている。人類は、極端な冷たさに、清め・再生・覚醒の意味を、繰り返し見出してきました。サウナ後の水風呂で感じる、あの生まれ直したような感覚。あれは、世界中の寒中の行者たちが知っていた感覚の、日常版なのだと思います。
寒稽古という、日本の鍛錬文化
寒さをあえて選ぶ文化は、祈りだけではありません。日本には、寒の内にあえて稽古を積む「寒稽古」の伝統があります。剣道や柔道の早朝の寒げいこ、書道の寒書き、寒中水泳。一年でいちばん厳しい時季に身を置くことで、心身を鍛え、季節に節目をつける。快適が当たり前になった今こそ、あえて不便や寒さに身を置く時間の価値が、あらためて見直されています。サウナと水風呂もまた、日常の中に「あえての負荷」を上手に組み込む、現代版の寒稽古と言えるのです。ぬくぬくと過ごすだけでは、体も心も、どこか鈍っていく。あえて熱に入り、あえて冷たさに身をさらし、そこから戻ってくる。この行き来が、感覚を研ぎ澄まし、日常のありがたみを呼び戻してくれる。裸参りの行者たちが寒さの中で得ていたものを、私たちは蒸気と水で、日々のかたちでいただいているのです。
現代のサウナーが、学べること
裸参りから学べるのは、根性ではありません。作法です。行に臨む男たちは、事前に身を清め、体調を整え、経験者に導かれ、決められた道を静かに歩く。無謀な我慢比べではなく、整えられた枠の中で、あえての過酷に向き合う。サウナと水風呂の正しい楽しみ方(やめどきの話)と、まったく同じ構造です。冷たさは、作法の中でだけ、祈りにも快感にもなる。枠の外では、ただの危険です。この線引きの文化ごと、受け継ぎたいものです。
寒さと向き合う街の店として
裸参りの伝わる街で、私たちは水風呂と外気浴を商っています。偶然ではない気がしています。岩手・盛岡のD'STYLEは、寒さと正しく向き合う文化の末席で、今日も蒸気を上げています。一月、裸参りを見かけたら、どうか静かに手を合わせて見送ってください。
写真: Jacob Ehnmark from Sendai, Japan (Wikimedia Commons, CC BY 2.0)



